イギリスのうなぎで蒲焼を

ポスドクやってます

イギリスのうなぎで蒲焼を

イギリスで働き始めて、もうすぐ1ヶ月が経つ。まだ日本食が恋しいとは思わないが、そろそろ日本語が恋しいと思い始めてきた。街を歩き、日本人を探す。東アジア人とすれ違うと嬉しくて笑みが溢れるが、この地にいる東アジア人は大抵中国人であり、溢れた笑みは空中で溶けて消える。

 

正直に言って、僕がこの地で日本人を探す理由は、全て僕の英語が不完全なせいだ。頭に思い浮かんだ日本語を英語に翻訳して口から吐き出す、というプロセスのうち、英語に翻訳して口から吐き出すところが律速段階となっており、頭の中に溜まった日本語で行われる思考がオーバーフローする。このオーバーフローのせいで僕のコミュニケーションにエラーを引き起こし、僕は口をしばしパクパク動かすだけの人形と化してしまい、コミュニケーションが思い通りにいかない苛立たしさを感じてしまうのであった。このオーバーフローの解消のためだけに現地で日本人を探すのもどうかとは思うが、そうせずにはいられない。

 

思い返すと、イギリスに到着したその日は、正直に言って英語を聞いて理解することすら難しかった。今はどんなに早く英語を喋られたとしても、なんとなく理解してわからないことを聞き返すくらいはできるようになった。そう考えると、思考のオーバーフローの積み重なりでフラストレーションを貯めることも近いうちに無くなるのかもしれない。そうしたときに僕は街行く人の中から日本人を探すことをやめるのだろうか?それはよくわからない。

 

イギリスでのの滞在はおそらく1年になると思う。望めばもっと長くいられるのかもしれないが、そのために犠牲にする物が多すぎる気がする。フルタイムの研究職を優先するか、家族を優先するか、どちらかを選ばないといけない。自分がやることを決める上で何を犠牲・生贄(サクリファイス)にするか選ばないとね、と同僚からランチでよく聞かされる。実際同僚のいう通りだと思う。僕がイギリスに到着して数週間後、日本で祖父が死んだ。葬式には立ち会えず、結果として僕は家族を犠牲にしてイギリスで働くことを選ぶ形となった。全て個人の自由意志による選択であり、その結末については自分で責任を負わなくてはならない。

 

選択には全て理由があり、すべての選択の背後に自分の夢があったりする。人生で一番大切なものはなんですか?と聞かれたときに家族、と答えずにアチーブメントと答えるのは東アジア人の特徴であるそうだ。僕も同様に、アチーブメントを求めていて、そのためにここにいる選択をしている。それは仕事の上でのアチーブメントについてもそうだし、他の些細なアチーブメントについてもそうだ。僕がイギリス滞在の間に期待している些細なアチーブメントは、イギリスの二の腕ほどもあるうなぎを蒲焼にして食べることだ。僕のアチーブメントは、どんな味がするのだろうか?